【作品紹介】
登場人物の山本さんは、北大卒。その同期入社(旧電々公社)に、東大卒の遠藤正介がいました。作家・遠藤周作の兄です。千代田丸事件の裁判が2人を分かってしまいました。法廷では、皮肉にも、その遠藤が先鋒として山本さんの前に立ちはだかることになりました。
僕は子供の頃から父に「山本さん」「山本さん」と耳にタコができるぐらい、その名前を聞かされてきました。僕が後年、北大を目指すことになったのも、ひとつにはこのことがあったからだと思います。
この作品は事実に基づいています。生前の父からの聞き書きです。ただ、僕が実際に見聞きしていないことも綴っています。その点を考えると「エッセイ」に分類することはできませんでした。短編私小説といったところでしょうか。
電々公社の職制は、中央省庁に準じたものだったと思います。良くも悪くも、東大をはじめとする旧帝国大学卒が幅を利かす職場です。遠藤正介は、文科系出身者では最高位の「総務理事」にまで昇り詰めました。「総裁」「副総裁」「技師長」(理科系最高位)に次ぐ地位です。電々は理科系偏重の組織でしたから。一方、山本さんは、13年の闘争を経て勝訴し、日比谷に移転した本社の部長(部下なし)として淡々と停年を迎えました。
なお、作品のモチーフともなった「千代田丸事件」ですが、戦後最大の労働争議とされています。
父自身にもちょっとした事件がありました。部下が酔って暴力沙汰を起こしたのです。相手も大したケガではないということで話は示談の方向に進んでいました。ところが、事件を起こしたその部下は実は「4回戦ボーイ」でした。つまり、ボクシング経験者。この場合、彼の拳は「凶器」と見なされます。これが当時の世間では通り相場でした。この事実を知り相手も、それでは、と示談を取り下げてしまいました。当然、雇用主である電々側も、彼を解雇する意向を固めました。その時、父が待ったを出しました。電々の決定に異議を唱えたのです。父は何度も被害者を見舞い、暴力の当時者ではあるが、部下の将来も考えて欲しい、と訴え続けました。結果、彼は示談となり電々も彼の解雇を取り消しました。
山本さんも父も共産党員ではありませんでしたが、当時の大学卒は、恐らく、漏れなく「マルクス・レーニン全集」とか「共産党宣言」とか「フルシチョフ・ミコヤン演説」とか、このあたりの本を漁っているはずです。当時、インテリといえば、左翼思想を齧っている、というのが通り相場でしたから。その一方で、「赤」は世の中を滅ぼすとして「赤狩り」がというものがありました。似た表現として、「レッドパージ」。電々公社の職場で、ある共産党員の同僚から、出張中の自分に代わって、共産党の機関紙である「赤旗新聞」と受け取ってくれと頼まれた職員がいたそうです。そのことが電々公社側に知れ、その方は解雇されてしまいました。


在りし日の、旧日本電信電話公社本社ビル(2022年頃撮影、日比谷の帝国ホテル向い)